昭和45年09月21日 夜の御理解



 信心のおかげで心が安らぐという事は、やはりいつの間にか何とはなしに身について行くのでしょうけれども。今日はあの昼、昨日のあの、総会の時に持っていったゴザがいっぱいあの、今濡れたり汚れたりしてローカに置いてありましたから、私はその、干したらどうかって言いましたら、あの、高橋さんが今日は下が湿っとるから今日は干すなち言うちゃりますからと君ちゃんが言うですもん。
 そりゃぁそうね、あの人中々あの人の言う事なら間違いなかろうち、ならそげんでん良かて私言うておりましたら、それに非常にこう引っかかったって言う訳なんですね君子さんが。そしてやっぱ親先生が言わっしゃったから干そうと思うて、干させて頂いたら、またお湿りがあった、ありだしたって。その時にですね、あの濡れるとか濡れないとかて事は問題じゃない、親先生が仰っしゃったからこうしたと言う事で私の心が安らいだと言う事を言うとりますですね。
 ですからあのぉ、そこん所ですよね、信心で私頂いて行くおかげっていうのは。今日あの、高島さんがお参りをして来て、奥さんがこの頃大変、ぢが悪くて難儀をしておる。はぁ秘結をして尚悪い。さぁそうすっともう、それは薬やあれとこう言う。もう本当にお任せしきっておかげ頂くとに、先生私は、もうあげん悪かったぢがね、もうそれこそ本当、もうお願いさせて頂いてお任せさせて頂いたら何時の間におかげ頂いたか分からん様におかげ頂いてしもうとる。
 それを言うて聞かせても家内が分かりませんち言うてから言いよりましたがね。その何時の間にかおかげを受けておるという事ね。その何時の間にか親先生任せになっときゃいいと、任せになるから必ずしも良い事、都合の良い事とは限らんでも、そこん所が本当こう続けられて行く内にです、いわゆる何とはなしにそれの方が矢張りおかげであるという事が分かって来てる。
 矢張り、親先生が言われる通りしたら降りました、と言った様なものではなくて、降ったけれども矢張り、あの言われる通りにした事が心に引っかからなかったと、こう言う。そういう心をね、信心というのは大体何時の間にか、こう養わせて頂くのじゃなかろうかと思うですね。そこにお取次を頂いて安心、お取次ぎ頂いて起きて来る事、皆全てが良い事として受けられる信じられる。
 そこにお道の信心者の私は安心があると思うですね。それをそのぉ自分の都合の良い様に都合の良い様にして参りましても、もう決しておかげにそういうおかげになって来ないようですね。今日もあのぉある方がもう久し振りに、椛目の時分に参って来ておった方なんですけど。もう兎に角あの自分の良かごとして、やっぱ良かごとおかげ頂いて来たけれど、十何年立ってから今度は都合の悪い事ばっかり起きて来る訳です。
 是は金光様にご無礼しとるけんじゃろうち思うて、今日は十何年ぶりに参って来たっち言うてから参って来た方があるんですけどね。そしたらねあの楽という字を頂いてね。あの楽という字の両方にこう糸偏の様なのがあの無いのを頂いてね、この糸偏の様なのをこう両方に頂いて初めて楽になるのだという事ですね。そのなあにも無いからなら安心とか信心で頂く、安らぐと言った様なものは頂けておれなかったと云う事ですね。成程困った時だけが神様と言う様な考え方から何とはなしに。
なら信心をさせて頂いて行っておる内に、私共の前には、その何でもない色々あるけれども、そのある事が一切神様のお取次のおかげによって神様と繋がっておる、良い事悪い事が繋がっておる。そう言う所から今申しますね何時の間にか何とはなしにおかげを頂いて、何とはなしに何時の間にか、例えばそのきつい事であっても。お取次を頂かせて頂いておる事だから、心に引っかからんで楽なという風に楽なおかげを頂いて。
 だから楽なという心はもう本当に、その簡単に頂けれるものではないですけれども、矢張り稽古をさせて、しよらなければですね、何時まで立っても私は本当の楽なというおかげになって来ないと言った様な事を考えさせて頂く。もう何手につけ足につけ事柄のすべてを神様と結び付けて行こうと言う様な生き方ですね。いよいよ熊谷さんがここにお届けされます様にお孫さんが、自転車の自動車の免許取ったからおばあちゃま見せたいと言うて、まぁわざわざ見えられたと。
 それでまぁ、あんたどんそげんしても、とてもおばあちゃま安心な行かんから、本当に私ば乗せちから合楽に連れて参ってくれんの、そしてお願いをしたら私も安心するから。言うなら今日はそいけん、今度来た時に乗せてってあげると言って言われたと言うて、まぁそういう風にしてですね、もう手につけ足につけ神様と結びつけて行こうとする様な精進がね、何時も出来て行きよらにゃいけんと私は思うですね。
   どうぞ。